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 禁書では、いろんな敵が改心する。一方通行あたりを筆頭に、シェリー、アニェーゼ、最近ではオティヌスなど。改心して味方にならない敵の方が少ない。味方にならない敵は数多や薬味のように、無残な末路を辿ることが多い。
 そして基本的に、その敵の無残な末路とは、上条は関わることはない。「こいつは悪党だったが改心できるはずだった。それなのに助けられなかった」ということが上条にはない。だから、作者から保護された主人公だと思う。
 改心して味方になったキャラは、改心する前はかなりひどいことをした悪人だったことが多い。それも具体的な行為として悪事を働いたというより、劇中の言動が不快感を与えるようなことが多い。シェリーは風斬を化け物扱いしたし、アニェーゼはオルソラを拷問した。一方通行は言わずもがなだ。ヴェントは風斬を大罪人扱いした。麦野はフレンダを殺した。(フレンダは裏切者だから仕方ないという意見もあるが、フレンダが殺されても仕方ない奴だというなら今になってフレンダとの友情エピソードを出してくるのはなぜかということになると思う)オティヌスは、しいていえば腕を斬ったりして傷つけたのは上条だけだから、その上条が許すと言えば許容される範囲だろうか。
 いずれにしても、わりと改心した悪人に甘い世界観である面はあると思う。不良が改心してボランティアを始めて絶賛されるように。やったことに対してそのキャラが真摯に反省し、償いのために動くということがあまりないように思える。
 そのひとつの端的な例として、新約6巻で麦野がニセフレンダに言った台詞がある。ここで彼女は、「麦野は改心して殺し屋をやめたんじゃないのか」と言うニセフレンダに対して、「私が殺人者のままでいて、また惨劇を起こしたとしても、浜面は許してくれるから大丈夫だ」とうそぶく。
 これはなかなか恐いことを言っていると思う。つまり、浜面は麦野のすることなら、罰されるべき悪事でも無条件で許すし、その浜面という裁判官でも王様でもない一個人の許しがあるだけで、麦野自身は自分の生き方を改める必要はないと開き直っていることになる。もちろん、内心ではフレンダ殺しを悔いており、フレンダの時と同じ状況になっても今度は殺さないだろうということは察せられるのだが、基本的には「はっきりと言葉にして謝罪する必要はない」と言っている。上の麦野の言葉はそういうことだ。そして僕がこれが気になったのは、つまり改心した悪人に甘い世界観を、麦野は浜面に甘えるというかたちで、ある程度自覚してその世界観に甘えていることになってしまう。僕が死んだフレンダの幽霊だったら、いささか釈然としない気持ちになると思う。
 浜面はなぜ、麦野を許すのだろう。たとえば上条は何度も「俺の友達に手を出すな」ということを言っている。禁書世界では、この「友達」というものが、非常に高い価値にある。そして「恋人」は、注意深く隠されている。これには、AKBの恋愛禁止などと同様の、キャラが恋愛関係になると読者に不都合という大人の事情も関係していると思うが、恋人や家族よりも上の、キャラが命まで賭ける存在として、多少、友達というものが過剰なほどに神聖化されているという印象は否定できない。浜面にしても、麦野が人を殺そうと過去にフレンダを殺していようと、「友達だから」の一語で全部を許容する。その是非は別として、そういう状況があるのは事実だと思う。
 友達、つまり「ダチ」を何より、ことに社会や国家より重視するということと、改心した悪人に優しいということ、この二つの要素から見えてくるのは、以前にも書いた、「禁書は要するにヤンキー漫画の世界だ」ということだ。その価値観から判断すれば、だいたい禁書の世界は読み解けると思う。統括理事だろうと魔法使いだろうと王女だろうと、タイマンでケリをつける世界だ。新約5巻でトールが上条をいきなり殴ったり暴言を吐いたりといったDQNな行動を取ったのも、ヤンキーだからだと思えば筋が通る。
 その作風、ことに作品の倫理観などについて思うところはあるし、作者が上記のような作品の構造に自覚的だとは、あまり感じられない。だから「攻撃力マックスの防御力ゼロ」(いかにもヤンキーらしいステータスだ)などと言われるのだろう。少なくとも、ヤンキーらしいエネルギッシュさが存在するのは確かだと思う。
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テーマ : とある魔術の禁書目録 - ジャンル : 小説・文学

最近、たまにネット小説を読む。
とくに「リゼロ」などはまだ公開されているが、さすがのクオリティーと文章量だと思う。僕には、とてもあそこまでのことはできない。目指すべき高峰である。

しかし、それはそれとして、どうにも気になったことがひとつ。靴の中に入った砂粒といおうか、奥歯にはさまった肉片といおうか、これを放置しておくとスッキリしない。

それは、作中で読者が「おや?」と思うような、違和感のある描写を、「いずれこの描写の理由は判明するから」と言って、そのままにしておく作者だ。

今あげたリゼロでいえば、よく言われるのは「なぜスバルは、あれほど献身的なレムを振ってまでエミリアに好意を向け続けるのか」ということだ。アニメの18話なども、それがあって、どうにも素直に感動できなかった。
これについて、「魔女がスバルにかけた呪いが関わっているらしい。いずれ明らかになる」という話は聞いたが、その答えはいつ明らかになるのだろう。少なくとも最近、本編は半年ぐらい更新されていない。目指すべき高峰でも、違和感を指摘しないで済ませたら、それは尊師様である。

リゼロだけの話ではない。
主人公がやたら上から目線だったり、ヒロインがDQNな行動を取っていたり、チートな師匠キャラがいたりと、そういう俺ツエエ小説は多い。そして、そうした問題点を読者から指摘されたときに作者が言うのが、「これは俺ツエエがしたいんじゃない。展開上の理由があるんだ」という弁明である。
しかし、それで読者は納得してくれるだろうか。少なくとも僕はできない。その理由はいつ明かされるのか。ただでさえネット小説は商売ものの週刊誌のように毎週かならず読めるとは限らず、いつエタるかわからないのだ。そして、その理由が明かされたとして、それが読者を納得させ得る理由になりえるのか。

以前読んだとある小説では、横暴の限りを尽くしたヒロインが、学校ではいじめられ、才能があるという理由で訓練所に放り込まれて苛酷な訓練をさせられていたために性格が歪んだという説明があった。これを見て僕が思ったのは、「不幸な過去設定が2ちゃんで叩かれるわけだ」ということだ。不幸な過去を設定しておけば、作中での横暴な行動がなんでも許されると思うのは、それこそ作者の御都合主義である。たとえば殺人犯が幼少時に虐待されていたことが判明したからといって、その犯人の罪が減じるわけではないし、被害者に対する償いの必要が薄れるわけではない。不幸な過去設定によるDQN行動というのはむしろ、そのキャラは不幸な過去を自力で乗り越える力のないヘタレであるという情けなさが明らかになるだけである。三重苦を自力で乗り越えたヘレン・ケラーの爪の垢でも飲めといいたい。

そして、これだけは強調したいが、作者は自分の作品に対して言い訳をするべきではないと思う。読者から「ここが変じゃない?」「これは気持ち悪いよ」と言われたとき、「いいや。これこれこうの理由で筋はちゃんと通っているんだ」と作者が説明して、それで何かが解決するだろうか。作者の気持ちがどうあれ、読者はリリースされたいま現在の作品を閲覧して、それに対する反応を返す以上のことはできないのだ。読者に対して作者が「僕の気持ちを察してほしい」というのは、筋違いであろう。

僕とて、シナリオやエッセイを公開している以上、いつどこでどんな間違いをしでかしているか知れたものではないし、どう誤解されるかもわからない。けれど、誤解や曲解を恐れていては作品公開はできないとも思う。どんなひどい誹謗だろうと、世に出した以上甘んじて受けるべきだと、僕は思う。ただ一方で、僕自身もまた読者であり、他の人の作品をこうして批評したくなることもある。リゼロのような有名な作品を別として誰それのこれがどうとあげつらうことはしないが、しかし、上に書いたような問題行動が、一部のネット小説の素人くささを助長しているのは事実だと思うのだ。公開するからには、批判を謙虚に受け入れ、よりよいものを作る努力はおこたるべきではないと思う。

テーマ : 二次創作:小説 - ジャンル : 小説・文学

ニコニコ動画を見ていたら不快なニュースを見かけた。
それでイライラして、ニュース非表示のやりかたを探していたら時間を潰してしまった。しかも結局消すことはできなかった。以前wikiの広告は消すことができたのだが、ニコニコの方が手強かったようだ。
それでもう一つ思ったのは、快適な環境を作るために努力するのもいいが、一方で、「快適でなければ我慢できない」という風に辛抱強くないのも、それはそれで困ったものなのかも知れないということだ。
人間生きていると、なにかしらの不快感とは遭遇せざるをえない。ましてネットとは、PCを通じて世の中とアクセスするのだ。世の中には、当然不快な情報はいくらでもある。それに一切触れないでいたい、けれどネットの有益な、気持ちのいい情報は欲しいというのも、贅沢というものではないか。
何もかも我慢するのに慣れるのもよくない。けれど一方で、潔癖症よろしく、どんなささいな不快感も我慢できないというのもよくない。最終的にはやはり、何事もバランス感覚が大事なのだと思う。
あともう一つ。何かに熱中していて、頭が活性化していれば、ささいな不快感などに一々わずらわされないだろう。活発に働く頭は、不快な広告など一々気にとめていないからだ。だらだらぼんやりとした頭だから、一の不快感が十にも百にも増幅されてしまう。自分の頭を活性化させるのが、一番のクスリだという気もするのだ。
中庸と精進。この二つの要素によって、不快感に打ち勝つことができるのではないかと思う。
 福井晴敏氏の『機動戦士ガンダムUC』は面白い。
 福井氏自身も非常にうまい作家であり、扱うテーマの「ガンダム」も非常に奥の深い、日本のアニメ・漫画史上に大きな影響を残した名前だ。戦争をテーマにしてきた福井氏とのコラボは、理想的なコラボと言ってよい。
 だから『ガンダムUC』全10巻はどこもみどころの宝庫であり、座右の銘にしたい言葉、迫真の名シーン、巧妙な伏線や力のあるクライマックスなどがたくさんあるが、その中でも特に、思わず取り上げて論じてみたくなる場面があった。
 それが、8巻での、初代ガンダムの登場人物カイと、『ガンダムUC』で初登場の連邦の高官であるローナンとの交渉の場面だ。この場面自体は、ストーリー全体ではそこまで重要度の高い場面ではない。ローナンが情報のリークをカイに頼んで断られるという、言ってしまえばそれだけの場面であり、この場面をカットしても物語は進むだろう。
 けれど、あるいはだからこそ、僕はこの場面のことは特に重視したいと思った。
 なぜなら、この場面は現実の世の中でも交わされていそうな会話であり、オードリーやフロンタルのようないかにもアニメキャラ然としたキャラとはまた違う、現実の人間と地続きの雰囲気をもつ、35歳のジャーナリストのカイと、壮年の政治家のローナンとの間の、現実的な会話だからだ。交渉の結果が実りのないものになったというのも、理想化のバイアスがかからなくてよい。登場人物から、交わされた会話の内容まで、様々な部分が、いわゆるアニメにはない味わいがあると思うのだ。
 二人の会話は、まずローナンが「ようこそ」と挨拶し、立ち上がって迎えに出るところから始まる。そしてローナンは力強い握手でカイを威圧するが、カイはそれに動じることなく、冷静に愛想笑いを返すのだ。
 本当になにげないやりとりだが、この時点でまず熱い。なぜなら、たとえば僕がどこかの出版社の社員で、国会議員か社長に会いに行った時に、年齢も地位もある相手からこんな風にされたら、たぶん「おお、こんなえらい人なのに、なんて優しくて人徳のある人なんだ!」と思わず感動してしまうかもしれないからだ。その点カイは、社会的な年齢や地位は高くなくても、あの栄光の初代ガンダムの舞台で、アムロやシャアといった名優と競演したアニメ・漫画の歴史のスターの一人だ。たとえ相手が強大な権力者だろうと、鷹揚そうな演技でたやすく懐柔されたりはしない。このさりげないやりとりのうちに、福井氏のカイというキャラに対する深いリスペクトが伺える。また、さりげないやりとりで緊張感と力関係を演出する妙味は、さながら千利休の「わび・さび」の精神にも通じる深みがあるのではないか。
 そして二人が本題に入るまでの間に、4ページほどのやりとりがある。この本題までの会話は一見無意味なようでいて、ローナンがラプラスの箱の名前を出し、カイがローナンの要請を断るまでの流れの伏線として、なくてはならない会話だ。これがなく、いきなりローナンが「単刀直入に言おう。私のために情報をリークしてくれ」と言い、カイが「お断りします。権力闘争に巻き込まれるのはごめんです」と言ったならどうだろう。読者は味も素っ気もない交渉だと思い、作者の腕を疑うことだろう。これもいちいち言うまでもないことのようにも聞こえるが、それこそ世の中には、その腕のない作家というのはいくらでもいるのであり、だからこそ福井氏の腕を称える意味があるとも思うのだ。
 本題であるラプラスの箱の話までに、カイとローナンは2つの話題で話をする。1つは、ジオン共和国のモナハン大臣の話であり、2つは、カイのジャーナリストとしての姿勢の話だ。どちらも、下準備の世間話であるが、本題とも無関係の話ではなく、さらに1つめの話はジャーナリストとしてのカイに対するエサでもある。この辺りの福井氏の話題の配置のしかたは、とても巧みだ。モナハンの裏の顔の話は単にジャーナリストにとっておいしいネタであるだけでなく、カイがラプラスの箱に関する依頼を引き受けないと危険なことになるぞ、という脅しとしても機能している。そうした巧妙で多くの意味を持つ伏線を張ったローナンの政治家としての手腕もうかがえるし、それに判断力を曇らされないカイの胆力もさすがというべきだ。2つめの話題も、ラプラスの箱への直接の伏線であり、なおかつ、1つめの話題とも微妙に接点があり(ジオン共和国のスキャンダルにのってこないという)、カイの立場や考えを読者に紹介する役にも立っている、これまた多くの意味を含んだ会話だ。こうやって、短い会話にも多くの意味を含ませて、読者に行間を読ませることこそ、うまい作家というものだろう。この会話で二人の間で交わされた「風見鶏」という言葉が、ローナンがカイに依頼をする引き金にもなり、さらにはその後にローナン自身に突き刺さるブーメランにもなっているのだ。その後のマスコミとフリーランスの話にしても、この世界の社会のしくみが、現実の社会とも地続きで感じ取れる良い文章だ。また、ここでいう「大衆」という言葉も、またガンダムの大きなテーマの一つだともいえる。
 そして、ラプラスの箱の話題を出してから、依頼の背景を説明するくだりまではローナンの語り口は順調だが、カイが軍拡の話で釘をさすところから、うまく流れが切り替わっている。ほんの一言で、ローナンの隠していた、積極的に見せようとしなかった保守派の弱みをさらけ出させたカイはあざやかというほかはない。会話や交渉の場面を作るなら、ぜひお手本にしたい一言だ。そして、このポイントを理由にしてのローナンへのカイの拒絶は、そのままローナンに代表される連邦という大きな権力機構への、修羅場を潜ってきた一個人からの批判でもある。
 今さら僕などが言うことでもないかもしれないが、『ガンダム』は光と闇、正義と悪の戦いではない。連邦とジオンのどちらにも言い分があり、またどちらにも反省点があるのだ。しいて主人公サイドを挙げるとすればアムロやブライトやカイやバナージのような個人だが、それに関しても、単純に個人の連帯による権力機構への正義の反逆、という図式に持ち込むことは拒否されている。しいて余談を言うならば、この辺りの『ガンダム』における個人対権力の構図を見誤り、主人公サイドのラクスやキラを新たな権力機構にしてしまったことが、『ガンダムシードデスティニー』の過ちの一つだということはできるかもしれない。が、それはともかく、カイにしてもバナージにしても、『ガンダム』における個人は決して権力や組織による横暴を許すことはなく、常にその強大さゆえの過誤を指摘し続けている存在だ。この点においても、ローナンの要請を拒否したカイは、よき『ガンダム』の個人主義者としての面目躍如たるものがあるだろう。
 カイが装備拡充の話題、すなわちかつての理想主義者ローナンが現実に屈して保守派になりはてている証拠を持ち出してからは、とんとん拍子に話が進む。この辺りは、このカイとローナンの短い会話だけで、良質な推理小説を一冊読み終えたような気分になれる。カイはローナンの境遇と心境に理解を示しつつも、それは自分の道とは相容れないときっぱり拒絶する。この辺りには、カイが、というより福井氏の妥協やなれあいを許さない厳格さ、清廉さがうかがえる。同時にここでローナン視点で会話が進められていた意味も読者は察することができる。交渉が決裂することで、カイにも連邦中枢へのコネクションを作れない、時代の中心へ参戦できない(彼はそもそもそれは望んでいないだろうが)といったデメリットがあるが、それ以上にローナンの失意が大きかった。単に権力闘争のコマが一つ入手し損ねたという程度のことではない、理想を捨てたことの代償の大きさが、ローナンの嘆息から味わえる。これは単に作中のローナンのみならず、大人になっていく、あるいはいま大人である読者にとっても、現実に妥協した場合にどれほどの代償が待っているかを察することのできる、深みのある描写だ。最後にローナンがブライトの身柄を人質にとって粘ろうとした時などは、それがカイを怒らせるだけの汚い手であることと同時に、そんな手にすらすがらざるを得ないローナンのつらさがわかる。ここでローナンを気兼ねなく非難できる人間は、そう多くはないだろう。大なり小なり、ローナンのようにならざるをえないのが大人であり、社会人なのだと思うのだ。
 ここで何らかの救いをリップサービスめいて与えることは、やろうと思えばいくらでもできるのだろう。けれど、それをあえてやらず、苦い結末にとどめたところに、福井氏の潔さと強さがある。ローナンはこの場で苦汁をのまねばならなかった。けれど、苦汁とは即死する毒薬ではない。苦いし、諦念を覚えもするが、死ぬことはない。そもそもローナンの味わった諦念は、それこそ大昔から大人の男が味わってきた諦念ではないのか。これからもローナンは汚い大人として生きていく。変な夢に溺れて現実を投げ出すでもなく、自棄になって酒に溺れるでもなく、くたびれた背中を妻子に見せつつ、日々コツコツとお偉いさんを演じていく。それを思うと、ローナンとはただ『ガンダム』の一登場人物であるだけでなく、すべての人間に通じる普遍性を獲得した偶像であるとも感じる。
 苦さが世界や人生のすべてとまで言うこともないだろう。しかし、一面の真理をついているのは確かだ。だからこそローナンの嘆息は、僕の胸にも深く響くのだ。その嘆息から目を背けることなくじっくりと見つめ、表面的な「無為に終わった時間」という言葉に惑わされることなく、その向こうにある「無為でありながら、あるいは無為であるがゆえの力強さ」のようなもの、すなわちタフさを把握することが、この小さなワンシーンをとことんまで味わいつくす秘訣ではないかと思うのだ。

テーマ : 機動戦士ガンダムUC - ジャンル : アニメ・コミック

 「Fate/Zero」は基本、様々な矛盾をはらんだ物語だ。
 普通の物語の登場人物が、あるいは自分の信念を貫いたり、あるいは自分の過ちを正して正道を歩んだりするのに対して、このバッドエンド前提の話では、人物は大体皆、最後まで自分の過ちを抱えたまま悲劇を迎える。ウェイバー辺りは前向きな結末を迎えはしたが、それはどちらかといえば例外に過ぎないだろう。多くのZeroキャラは自分自身のせいで哀しい結末を迎える。
 それは切嗣や時臣のようにあからさまに間違っていそうな人物だけでなく、一見清廉で罪が無さそうな人物でも、むしろそういう人物であればあるほど、小さな、しかし決定的なズレが浮き彫りになっていく。
 
 そんなひとつが、セイバーとアイリの主従の関係だと思う。
 
 セイバーはアイリに騎士として忠誠を誓い、気の合わない切嗣にかわってアイリをマスターと仰ぐ。この二人はその関係に満足し、いい関係を築いて仲良くやっているように見える。しかし、当初から結末まで、セイバーとアイリの二人にも、多くの矛盾やズレがある。
 まず、アイリはいくら仲が良いとはいえあくまで仮のマスターであり、本来セイバーが協力し、相互理解を深めなくてはならない相手は、やはり切嗣なのだ。当然切嗣の方が責任は重くはあるものの、セイバーの方もまた、切嗣を理解する努力が足りなかったのは事実だろう。そしてそうなったのは、皮肉にもアイリとの仮の主従関係の居心地良さが、切嗣との関係を忌避する逃げ場となっていた側面もあるのではないか。最初からアイリが切嗣同様、無表情な人物だったなら、セイバーもそこまで情に溺れなかった可能性があったかもしれない。セイバーとて武人であり、現実主義と無縁の人物ではないのだから。1巻でセイバーとアイリがお互いに敬意を持つようになったことが語られたが、実は敬意など持たずに、お互いをモノのように扱った方がうまくいっていたかも知れないのだ。
 
 そして、セイバーは騎士としてアイリに仕えたのだが、ここにも間違いがある。それは、ディルムッドのようにもとより騎士のみの身分であるならともかく、セイバーは「騎士王」であり、騎士であると同時に王でもあるのだ。だから、王として君臨する立場のセイバーが誰かに膝を折るのは、倒錯した状況でもある。もっともこれについては、「騎士王」という言葉自体にすでに矛盾があり、誰かに忠義を尽くす騎士と、君臨する立場の王とが合体すると、セイバーは家臣として振る舞えばいいのか君主として振る舞えばいいのか、わからなくなってしまう。実際には、カムランの丘のことや士郎との関係などを考えれば、セイバーとは結局のところ騎士にも王にもなれず、士郎同様、地に足のついていない理想を追って転倒した一人の迷える若者ということなのではないかという気もするのだが。
 
 そして結末としては、セイバーは聖杯の器であるアイリの消耗をどうすることもできず、アイリに対する「貴方を守る」という約束を守ることもできないまま、ただアイリの最期を看取ることしかできない。とはいえこれは、最初からそうなると決まっていたことであり、本当にアイリを救いたかったら聖杯戦争をやめる他はなかったのだ。その意味で「アイリを守る」と約束したこと自体がそもそもの間違いであり、セイバーの立場ではほぼ、どう足掻いても実現不可能な願いだった。それを、できない約束をしてしまったことは結局アイリという個人と関わりを持ってしまったためであり、切嗣のようにろくにアイリと会話をしなければ、そんなことにはならなかったのではないかと思われる。まあ、最終的にギルガメッシュに勝てない以上、「セイバーが聖杯を手に入れる」という選択肢がそもそもないのだが、それを別にしてセイバーとアイリの関係だけを考えるなら、そういうことだといえよう。まあ、それをいうなら、そもそもアイリがいずれ道具になると知ったうえで愛情をもった切嗣も間違っていたのだが。それについては、「10年後には必ず死ぬ女性を愛するか否か」という究極の問いであり、切嗣は基本的には10年間ずっとその問いに内心で逡巡し続けていたのではないか。妻として愛したなら、どうせならそのまま連れて逃げてしまえばよいのであり、聖杯戦争をやるのなら最初から愛するべきではなかったのは確かだろう。愛するならそれこそ、死ぬ「予定」のない舞弥あたりを愛すればいいわけで。
 
 そんなわけで、セイバーとアイリの関係ひとつとってみても、様々な矛盾が浮かび上がる「Fate/Zero」だが、では僕はこの文章で二人を非難したり批判したりするつもりなのだろうか? それは否だ。むしろ、その矛盾、過ちこそがこの主従を、正道を歩める主従以上に魅惑的に見せ、人をひきつけてやまなくしている所以であり、作者の虚淵氏のたぐいまれな手腕を示していると思うのだ。最近「リア王」などを読んでも思うのだが、人はただめでたいだけの話はすぐに飽きてしまう。愚か者の話、悲しい結末の話こそが、人をひきつけ、後世に残っていく。僕などはハッピーエンドでないと気が済まない人だが、それでも悲劇の偉大さについては、やはり理解せざるを得ない。セイバーとアイリの物語には、それだけの説得力があると思うのだ。

テーマ : Fate関連 - ジャンル : ゲーム

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