伯陽堂 http://hakuyou.la.coocan.jp/

プロフィール

Philo

Author:Philo
中国思想、仏教、オタク文化などが好きです。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブロとも申請フォーム

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

自作SRCシナリオを更新いたしました。

コングロマリット

『コングロマリット』2章を公開しました。

またもや俊一に仕事を持ち込む竜次。
すげなく断ろうとした俊一だったが、
遠藤の仕事と聞いて考えを改めて組織の仲間を集める。
闇市の警備の仕事につく俊一の前に現われる敵とは。

楽しんでいただければ幸いです。
バグなどのご連絡は、掲示板やメールなどからお願いします。
スポンサーサイト

テーマ : フリーゲーム - ジャンル : ゲーム

 『るろうに剣心』で、内務卿の大久保利通が剣心に志々雄暗殺を依頼に行って断られた場面があった。というより、剣心の周りの人々に遮られたのだが。剣心はこの時点では何も言わなかった。
 『るろうに剣心』ではよく、悪い意味でなしに、色々なものを思うことがあるが、ここもとりわけ自分にとって「僕はこう思う!」という場面である。
 まず、剣心の仲間の主張をまとめてみよう。薫は不殺を貫いている剣心に志々雄殺しをやらせることを拒絶した。恵は自分を司法取引の道具にされるのを拒絶した。左之助と弥彦は明治政府が志々雄を利用しておきながら切り捨てるという卑怯な真似をしておいて、自分が危なくなるとその後始末を剣心にやらせるということの不道徳さを批判した。
 これらのことが剣心の仲間によって主張されたのに対して、大久保の部下の川路警視は「非常事態だ」としかいえず、大久保は、おそらくは剣心を道具にすることへの罪悪感から、黙って引き下がった。そしてその後で大久保が宗次郎に暗殺され、剣心は大久保の死に報いるために志々雄暗殺へ向かうのである。
 ここで僕が気になったのは、剣心の仲間の主張のみ語られ、政府の言い分が一切語られていないということである。いわば検事だけがいて弁護士のいない裁判のようなものだ。そこで、被告である明治政府の側に立って、薫たちに反論してみたいと思う。なお、これは自分の中の疑問を解消するためであり、キャラとしての薫たちは好きであるとは明言しておきたい。
 剣心に不殺を破らせたくないという薫の主張に対しては、まず、剣心以外に志々雄暗殺ができる剣客がいないということがある。正確には、明治政府としては、剣心と斎藤の二人で当たらせて確実に志々雄を殺害したいということであろう。剣心が不殺を始めたのは剣心の個人的な事情によるものであり、政府の責任ではない。そもそも、飛天御剣流を世直しに使うために師匠の清十郎が止めるのを振り切って討幕側に参戦したのは剣心の自由意志なのである。薫はこの時点でそこまでは知らないが、剣心に気遣って抜刀斎になった理由を問わなかったのは薫たちの自由意志である。よって、剣心が自分の意志で刺客を始めたのを知ることが不可能だったとはいえないだろう。
 政府が志々雄を利用しておいて切り捨て、その後始末を剣心に押し付けたという左之助の主張に対して。まず、剣心が暗殺者をやめなかったら、志々雄という超危険人物を雇う必要はなかった。政府側としては、むしろ戦争の激化する中で戦線離脱した剣心に文句をつけたいところであろう。剣心が人斬りを廃業するに至った雪代巴の一件は、そもそものきっかけは剣心が巴の婚約者である清里明良を殺したことである。剣心が清里を殺し、さらにその婚約者である巴と相思相愛になったことについては、「剣心の責任ではない。命じた自分たちの責任だ」と桂小五郎は言っていたが、飛天御剣流という凶器をひっさげて討幕側に参戦したのは剣心自身の意志であり、剣心に責任がないとはおかしい。巴は「剣心の弱点は人斬りらしからぬ優しさ」といっていたが、この「弱点」は「欠点」と言い換えることもできる。なぜなら、剣心は優しさゆえに戦乱を終わらせようと思い、清十郎の禁を破って討幕勢力に参戦したわけだが、なにをいうにも十代前半の少年であり、戦乱を終わらせるには人間を山ほど殺す必要があることに思い至らなかった。そして優しさゆえに、自分を世直しのための捨て石と割り切ることもできず、殺人への罪悪感に悩み続けていた。その結果として巴の死を契機に剣客として潰れてしまったわけである。なお巴が死んだこと自体は、闇之武の辰巳が剣心を殺そうとして、剣心の方は辰巳と相打ちになろうという状況で「どちらかが死なねば助からない」という状況で剣心を生かすことにしただけのことで剣心に罪はない。罪があるとすれば、闇之武の中条や角田を倒した時に、いつもやっているように、情報だけ聞いて即座に殺害しなかったことが間違いといえよう。手や足だけ斬って(この時点で十分残酷なのだが)命をとらなかったのは、相手がプロの殺し屋なのを考慮しない重大ミスであり、中条たちの命を巴の命より優先したとすらとれる。巴を生かすためには、万全の状態でゴールの辰巳にたどり着く必要があった。そうすれば、第六感だけ封じられた剣心なら辰巳に勝てたはずなのである。そうすれば、二人とも生還できた。作品の都合とはいえ、剣心はいろいろと中途半端の多い人物であることは確かだし、その点については斎藤の批判でも問題点を指摘しきれていなかったといえよう――もっとも指摘しきれていたら、そもそもこのお話自体が終わってしまうのだが。
 話がそれたが、討幕側は勝つためには人斬りが必須だった。そして剣心が抜けたので志々雄を雇ったが、志々雄を放置しておくと、志々雄はその戦闘力をもとに自立してしまう。だから処分した。これを左之助は卑劣と批判するが、政府としては一刻も早く国内を統一することで、日本全体の犠牲者を減少させたかった。正義にこだわって犠牲を増やすのと、どちらがより正しいのか。しいて政府の非を挙げるとすれば、志々雄を焼殺という不確実な方法で処分しようとしたことであり、志々雄が無力化した時点で首を切断して確実に殺さなかったことがあるだろう。そこまで志々雄の生命力が強いというのが想定外だったのだろうが、万全を期しなかったのは無能といわれてもしかたがない。
 そして、剣心に志々雄暗殺を依頼する大義名分だが、たとえ剣心に不殺を破らせたとしても、剣心の心は犠牲になるが国家は守られる。それは腐敗役人も守られるが、同時に民衆が犠牲になる戦争が防がれることでもある。志々雄が天下をとった場合、戦争続きの日本になり、膨大な数の民衆が犠牲になるだろう。大久保と川路の罪があるとすれば、そこを徹底して説かなかったことにあるし、大久保が罪悪感から引き下がったとすれば、それは内務卿失格だといえる。さらにいえば、剣心の不殺を守らせたいなら、志々雄を無力化させて捕獲することの依頼でもいいのだ。斎藤と協力すれば不可能ではないだろう。武士道的ではないだろうが、それをいうなら、武士道と人命のどちらをとるかということになる。大事なものを守るためにはなりふり構ってはいられないはずである。

テーマ : 日記 - ジャンル : 日記

 最近は榊涼介版ガンパレード・マーチにすっかりはまりこむ日々だ。ガンパレードはアルファシステムの看板であり、非常に独特な世界観やシステムで有名なゲームだが、榊版はそこへさらに、独特の榊涼介的な世界観・価値観を混入している。それは遠く処女作『偽書信長伝』の頃から綿々と続く、榊涼介という作家の一貫した価値観だ。それゆえガンパレードファンには榊版を嫌悪する人もいるのではないかと想像するが、僕などは『信長伝』から『ガンパレード・マーチ2K』に至るまでの榊ワールドに魅了された一人であり、そのためにこんなエッセイに手をつけた次第である。
 その榊涼介の価値観というのは、ひとえに氏の明晰な頭脳や合理性に裏打ちされた、人間の強さの具体的な検証と、そしていかにして弱さを克服するかの考察ではないかと思う。それが、さらに氏のユーモアセンスによって人間味をふくませてある。『偽書信長伝』の主人公・織田秋葉原信長はその野性的な武勇と頭のキレ、そして天性の楽天性で読者をひきつけるが、これらの特徴は、榊ガンパレードの中心である速水厚志と芝村舞にもいかんなく継承されている。荒波少将、幻獣王カーミラといった主要オリジナルキャラクターもしかりである。彼らの示す、チャンドラーいうところの「強さと優しさ」は、榊氏がいかに哀川潤どうよう「人間ってスゲエもんなんだ」と考えているかを如実に示している。彼らの生き様を見て、憧れに胸をはずませるか、己の弱さに劣等感を抱くかは、それは人それぞれなのかも知れないが。
 もっとも、そうした「強い」キャラたちのみを見るのは、榊涼介という盾の一面を見ることでしかない。榊氏は、弱く醜い人間を描くことにも卓抜しているのである。それは、たとえば秋葉原信長の強さに恐れをなし、敵の武田四谷に寝返ってしまう松平茶水をはじめとして、当初は芝村舞に反発して失態を犯す軍人の近江貴子、政府の大本営発表を信じて、本当はギリギリまで戦っていた自衛軍の詰めの甘さをなじる大衆たち、そしてなによりも何度も何度も挫折して傷つく心優しき整備班副主任・森精華など、これまた枚挙にいとまがない。
 しかも、これはかなりの高等技術だと思うのだが、榊氏は弱い人間をただ悪役として終わらせることをしない。貴子は舞への嫉妬に狂った挙句幻獣共生派に取り込まれてしまうが、その後はカーミラの友として第二の人生を歩み、人を守ることに目覚めるし、戦友の藤代の優秀さへの劣等感をつのらせ「仲良しグループも終わりだね」と言い放つ田中亮子もカーミラによって精神操作を解かれ、藤代たちと和解する。強い人間の弱さを描くのにも巧みであり、榊版オリキャラとしては古参である戦車兵・佐藤まみは物語のさなか愛する人を失い錯乱するが、その傷をかかえてなおも力強く戦い続ける。物語のひとつの最高潮である「九州奪還 5」では、南王の軍勢の圧倒的物量に疲弊したカーミラが、ついに人間に組した自らの判断を誤りかと疑う場面もある。カーミラほどの英雄にして、なお疲れて心乱れることはあるのだと、榊氏はいっているのである。
 榊氏の著作は非常にキャラが多く、さまざまな立場の人間が出てくるため把握が難しく、人に勧めにくいところがあるが、しかしそれは一度はまると抜け出せなくなる強い魅力を持っていることをも意味しているのだ。実際に、氏ほど人間を深く観察し、多角的に描いている作家は多くはないと思う。
 そうした人間観をふまえて、なおも氏の語りたいことを一つあげるとすれば、「人はいかにして無駄を省きつつ人間性を失わずにうまくやっていくか」ということがあると思う。それは、おもに苦難の日本を支え続ける名君・大原首相の歩みに代表される。彼女がいなければこの日本は何度でも滅亡していただろうというほどに、榊版ガンパレードの日本は越えがたい苦難に何度もさらされるのである。それは、60年の長きにわたって平和と繁栄を享受してきて、歴史問題やら何やらなどというのんきな議論をしていられる現実の日本が想像もつかないような苦難の道である。たとえば、「北海道独立 2」で北海道特別措置法廃案を提議する大原首相が野党の反対にあう場面があるのだが、ここで強引に北海道の特権を廃止する首相のやり方は乱暴すぎると非難する野党議員に対して首相は、北海道の専横を許せば本土に物資が入らなくなること、そのままではひと月で燃料が枯渇することなどを、小学校で使うボードを用いて説明し、論破してみせる。物資が枯渇して社会が破綻するなど、こちらの日本人ではきっと想像もつかない事態であるだろう。むろんこれは「危機的状況なら何をしてもいいのか」という非難は当然受けるやり方なのだが、榊氏はこの問題にも非常に真摯にとりくみ、「危機はたとえ人を犠牲にしてでも打破せねばならない。しかし、人道は極力守るし、一線は越えない」という明確な基準を提示する。そのゆえに大原首相や荒波少将らの善良な合理主義者への対比として、クーデターを起こして民間人に銃を向ける秋月、泉野たちや、子供たちを実験動物扱いする北海道の「ハウス」などを登場させる。
 『魔法少女まどか☆マギカ』『Fate/Zero』などで知られる虚淵玄氏は非常に頭の良い人だが、その頭の良さゆえに物語を合理的に展開すればするほど、ミもフタもない悲劇にしかならないと気付いてしまい、バッドエンド症候群に陥ってしまった人だ。「物語をハッピーエンドにするのは宇宙の法則をねじ曲げる、途方も無いパワーのいる行為だ」と氏はフェイトゼロ1巻のあとがきで語っているが、要するに、本当はどこかで失敗するし、汚いこともしなければならないに決まっているのに、正義の味方が勝つ話を作るなど、しょせんは甘い幻想に逃避しているにすぎないのではないか、と気付いてしまったのだろうと思う。榊氏はそうした現実を承知した上で、それでも人間を信頼し、「よきゆめ」を紡ぎだすことに全力を注いでいる人なのだと思う。実際、榊氏の本をそういう見かたで丁寧に読めば、「ご都合主義だな」と思えるような箇所などいくらでもあることだろう。たとえばシベリアの幻獣王ミハイルが善良な人柄だということも、あまりにも幸運な偶然にすぎない。もしも虚淵氏に書かせていたら、ミハイルは人間を塵としか思わない冷血漢となり、シベリアの大軍勢に日本が飲み込まれてデッドエンドになっているかもしれない――しかし、そんな夢のない物語を誰が読むだろうか?
 だからこそ榊氏はディーン・R・クーンツの教訓に忠実に従って日本や5121小隊を苦難につぐ苦難に突き落としつつ、それでも一筋の希望にけんめいにすがらせ、満身創痍のすえのハッピーエンドへと導くのだと思う。主要登場人物が死ぬことはあまりないが、その代償として彼らは徹底的に傷つく。ことに、滝川と森の二人は、過食症とトラウマで徹底的に苦しめられることになる。厚志と舞のような超人でも、来須のような歴戦の武人でもない才能のある凡人のこの二人は、ある意味で榊版ガンパレードの真の主人公といえるかもしれない。傷つき壊れていくこの二人が笑って生きられる未来へと物語を着地させるべく、榊氏もまた全力で奮闘しているのだと思う。そして榊氏は、滝川と森に読者が自分を重ね合わせ、二人の幸せを願えるように、たくみに工夫しているのだ。「いま入院させるのはまずい。そうすると自分を哀れむようになる」という言葉が作品の中にあった。人はあまりに苦しいと、現実を見るのをやめてしまいたくなるものだ。それでも支えてくれる人がいれば耐え抜くこともできるし、きっと良いこともある。精巧に考えつくされた物語の奥底にあるのは、そんな素朴なメッセージなのではないかと思う。

テーマ : 日記 - ジャンル : 日記

 昨今、僕の部屋に積まれた書物を見てみると、政治や思想の本であったり、あるいは国際情勢のニュース、そして美少女の同人誌などである。これらの書物に共通することが一つある。それは、いずれも人間本位であり、非人間はあくまで背景や道具でしかないということだ。
 『蒼天航路』によると曹操は三国志の英雄のうちでもっとも人間に興味を示した英雄だったという。その曹操が好きな僕もまた人間が好きだ。いろいろとトラウマを抱え、嫌いな奴もいる僕だが、それでも「人間ってスゲエもんなんだぜ」という哀川潤の言葉をかたくなに守り続けているのである。
 ただ、そんな僕も昔、鉄道少年であり虫取り少年であったこともあった。また世の中には、人間に興味を示さず、鉄道、ロボット、銃、車、昆虫、犬猫、爬虫類などさまざまな「非人間」に愛着を持つ数奇者はいくらでもいる。それで思ったことは、このところ僕は、いささか人間に傾斜しすぎたのではないかということだ。それが、このところずっと感じている閉息感の正体の一つなのではないかという気もする。
 人間は人間である以上、人間に興味を示さずにはいられないと思う。しかし、なかには、人間よりも機械や生物にひかれる人もいるだろう。動物愛好家として有名なムツゴロウさんは、プライベートでは非常に気難しく人間嫌いな人物だと聞いたことがあるが、今にして思えば「さもありなん」というところである。動物にそれほど魅了された人ならば、自分の名声にすり寄ってくる人間など、煩わしい以外の何者でもないことではないか。
 明日は休日だ。ひとつ、いつも行っている書店で昆虫図鑑か機械の本でも買ってみるのも面白いかもしれない。そうそう、人間に関する書物以外に自分の愛好するものがひとつあった。鉱石である。世話してやらないと死んでしまう動植物と違って、鉱物はただ黙ってそばにいてくれる。考えようによっては、これほどいとおしい存在はあるまい。僕の手もとには東急ハンズで買った5センチほどのガラス玉があるが、この玉は末期がんの母に手渡したもので、母の臨終を見届けた玉である。一時、そのゆえに手近におくのが辛く、遠ざけたこともあったが、今ではまた、枕元においてある。また、僕はペットボトルを潰す時、形あるものを破壊する反動を味わう。ものいわぬ量産品のペットボトルにも、いまの形への執着はあるのだろうか。『荘子』には、もしも鍛冶屋が鉄を鍛えるとき、その鉄が口をきいて、どうでもいい農具や食器はいやだから是非名剣に仕上げてくれといったら鍛冶屋はこれを化け物の鉄だと思うだろう、という説話がある。だからこそ人間も天の与えた運命に逆らわず、無情の鉄のように淡々と在ればよいという、これまた人間中心の思想である。しかし同時に僕は思うのだ。「鉄も名剣になりたいだろう」と思うのも、また人間の傲慢であり、農具や食器になりたがる鉄もいるのではないかと。さらにいえば、公衆便所で汚物にまみれて悪臭を発している便器はなにを思うのだろう? もしも人間が便器に変えられたら、これは恐ろしい拷問である。しかし、便器はいくら汚されても、痛くもかゆくもないのだろうか。荘子は「道は糞尿にあり」といった。人間にとってはきたないと思える糞や小便にも、ダイヤモンドやプラチナ同様、万物の真理は内在している。してみると荘子は、人間中心主義のようで、非人間への思いを馳せる人でもあったのだろうか。この世は人間もいれば非人間もいるのである――もっともそれは、地球というちっぽけな石ころの表面に生えたカビのごとき人間の主観にすぎないことであり、宇宙はただただ無情にそこに在るだけなのだろうが。悩んだり喜んだりするのも、とどのつまりは電気信号にすぎない。解剖学者の養老孟司氏ならきっとそういうことだろう。

テーマ : 日記 - ジャンル : 日記

 僕は子供の頃からイモムシが苦手だった。毛虫はなおのことである。姿を見るとぞっとするし、庭で背中に落ちられて悲鳴を上げて駆けずり回ったこともある。そんなにイモムシを恐れる僕なのだが、同時にイモムシが好きでもある。父はアゲハやモンシロチョウの幼虫を見つけると決まって水槽に葉っぱと一緒に入れて、サナギが羽化するまで飼っているが、僕もそれを眺めるのが楽しみだ。むしろチョウより幼虫の方が好きで、サナギになって動かなくなるとどことなくがっかりしたような気持ちになる。しゃりしゃりと音を立ててキャベツなどをかじっている様子を見ていると、何よりも飽きないものがある。イモムシを恐れながら好んでいるという、実に不思議なものである。
 だからイモムシが好きだからといって、うっかりgoogleで画像検索などするわけにはいかない。イモムシの大群の写真でも見た日には、この歳でトラウマになること確定である。死体と並んで虫は検索すると危険な単語といえるであろう。「アゲハチョウの幼虫 飼育」あたりで検索すれば、まだ穏健な画像が見られるようだが。逆に言えば、それだけ警戒を要するものなのだともいえる。
 イモムシを怖がるのは、何も僕に限ったことではないと思う。というより、大昔から人はイモムシを気味悪がっていたらしい。というのも『韓非子』に、「人は蛇や芋虫を気味悪がるが、漁師は蛇に似た鰻を掴むし、女は芋虫に似た蚕を摘む。これは鰻や蚕に利益があるからだ」とある。蛇と芋虫が嫌悪と恐怖の対象だというのは、紀元前から自明の理だったようだ。
 イモムシはいいのだが、僕としては蛇は納得いかない。蛇ほど清潔で愛らしく上品な生物は他にいないとすら思う。むしろ毛むくじゃらで臭いのきつい犬や猫よりも可愛いではないか。また実際、蛇やトカゲ、カエルといった爬虫類、両生類に関してはことに現代では、愛好家は決して珍しくはない。僕の家の近所にも爬虫類専門店があった。もっとも経営難でつぶれてしまったが。以前うちで飼っていて病死してしまった蛇がいたが、これは亡くなった蛇年の母が極楽へお供に連れて行ってしまったのだろうと父とよく言い合っている。
 イモムシの話が蛇の話になってしまった。話を戻すと、ふとイモムシのことを考えだしたのは、内田百間著『百鬼園随筆』のなかでイモムシが地面に落ちてアリにたかられる話が出ていたことによる。といっても本題は飛行機の話であり、イモムシの話はちょっとした例えに過ぎないのだが、そのわずかな一文からここまでの連想をかきたてられるほどに、イモムシというのは自分にとって恐ろしくも無視できない存在なのだといえる。いや、別にダジャレではないが。
 
 僕は最近、もっぱら人間にばかり興味を向けている。愛読しているオタク向けのライトノベルや美少女ものマンガも、要するに人間主体の世界である。時にはあえて、じっくりと動物や昆虫の世界に目を向けてみてもいいのかもしれない。そんなことを、なんとなく思った。

テーマ : 日記 - ジャンル : 日記

 今回のブリーチで更木剣八が「陛下」(名前が出てたが覚える気も起きない)に戦闘描写なしで倒されていた。これを見て、「ああ、やっぱりな」という失望とも諦念ともつかない思いを味わったものだった。
 更木はこれまで、人間的にも能力的にも、ブリーチという作品における不可侵の象徴となっていたと思う。事実、隊長たちが次々とやられていたクインシーたち相手にも、更木はこともなげに勝利していた。陛下がラスボスで強いのはわかる。しかし、更木をかませ犬にするのは、超えてはいけない一線だったと思う。それをしたことで、ブリーチは聖域を失った。
 同様に聖域を破った例として、板垣氏の「バキ」で、花山薫を驚き役にしたことがある。強さもさりながら常に冷静だった彼が驚くのは、狼が草を食うようなものである。その点で、別の原作者のついている「疵面」のほうが、花山というキャラクターをわかっているとは思える。こちらでは、花山の強さと冷静さを踏まえつつ、さらに花山の「優しさ」をきっちり描いているからだ。
 久保氏は絵はうまい。また作品は売れている。しかし、ストーリーはうまくないと思う。少なくとも戦闘描写では、駆け引きや策を使った緊張感のある展開はほとんどない。だからこそ、子供でも理解できて、広汎な人気を集められるのかも知れないが……。してみると「名作」とは何なのかと考えざるを得ない。少なくとも、その誰にでも理解できる単純な戦闘や展開に不満を持っている人間はいるはずだ。
 陛下が更木よりずっと強いのはいいだろう。この世界における強さの要因とは何なのかが気になるが、とにかくそういう能力の持ち主であると。ただ、これは恋次と石田との初対決や、浮竹・京楽と山本との対決でもいえるが、戦闘場面をショートカットしたのはいただけない。これは場合によっては手抜きであり、お金をもらって原稿を描いていながら、商品のクオリティーを下げたともとれる。もっとも、久保氏が「法律もウェブルールもくそくらえ。俺が嫌だと言っている」発言をはじめとして、独善的な性格を露呈しているのは確かである以上、そうした批判も馬耳東風かも知れないが。ただ、僕の考えを述べるならば、それまで無敵だった更木が敗北するなら、陛下の圧倒的な力を見せ付けるなり、それに対して更木が何らかの思いを抱くなりして、とにかく更木と陛下の人格を際立たせても悪くはないのではないだろうか。
 見えざる帝国編にしても、現状でやっているのは、とにかく圧倒的な力を持った敵によって死神世界が大ダメージを受けて大勢人が死んでいるというだけのことである。味方をピンチにすれば人気が出るというのは一つの法則だが、今のこの展開は、まるで子供が砂の城を崩して遊んでいるように見える。工夫がない。実際のところ、さしものブリーチ人気にも、そろそろ陰りが見えるのではないかと要らざる心配をしたくなる。
 
 対照的に、今回のトリコとめだかボックスは面白かった。トリコでは怪獣の侵略というおなじみの展開の中で、大勢の犠牲者が出る場面を丁寧に描き、さらに味方が全力で「街が壊れないように」努力している描写がある。ここに、作者の努力が感じられる。なげやりでない。めだかボックスでは、使い捨てキャラのようだった潜木怪儡をうまく再利用し、また半袖の善吉への感情をうまく表現している。球磨川もめだかに対して戦意を失っていないと、カッコ抜きで明言した。これまで何度も、「少年漫画のおきまりのパターン」に挑戦状を叩きつけてきた(そのゆえに多くのアンチを生んだ)めだかボックスのことだから、球磨川とめだかの再戦も有り得るのではないか。その場合、勝負がどう転ぶか、本気で読めないところである。

テーマ : 日記 - ジャンル : 日記

alwさんのSRCシナリオを公開いたしました。

九重霧の恋愛事情

生徒会長『九重霧』は友人がある男性に一目惚れをしたことを知る。
そこで、霧とその友人たちは、その相手を探すために奔走することになるが、
霧はどこか寂しそうにしており……。

九重霧の初恋とにまつわるお話です。
お暇があるときに気軽にプレイしていただけると幸いです。

『水無月京夜の冒険』ともリンクしております。

楽しんでいただければ幸いです。
バグなどのご連絡は、掲示板やメールなどからお願いします。

テーマ : フリーゲーム - ジャンル : ゲーム

| ホーム |


 BLOG TOP