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中国思想、仏教、オタク文化などが好きです。

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 僕は『禁書』を読んでいると、『バッカーノ』や『ホライゾン』のように、「すとん」と納得できない。「なんでこうなるんだ」という疑問が浮かぶ。
 あるいは、その疑問、納得のいかなさ、隔靴掻痒が、『禁書』が多くの読者をひきつける要因なのかもしれない。人は完成されたものより、いびつな宝珠にひきこまれるものだ。もっとも、鎌池氏がそこまで考えているとも思えないのだが。
 『禁書』への疑問は数多くあるが、そのなかでもとりわけ、「主人公の上条は誰のことが好きなのか?」というのは強い疑問のひとつだ。
 上条は男子高校生だ。僕は自分がそうだったからわかるが、年頃の男子高校生などというものは、はっきりいって、寝ても覚めても女の子のことばかり考えてるものだ。「やりたい」という肉体的な欲求もそうだし、精神的な「振り向いてほしい」「一緒に話してほしい」という欲求も、それはもう強烈なものだ。「思春期」とはそういうものであろう。
 たとえば、僕の大好きな『ホライゾン』の葵・トーリは、ホライゾンのことが好きだと明記されている。どのぐらい好きかといえば、彼女の心を取り戻すために、全世界と戦争をするのも、悲しむと死ぬという制約を受けることも辞さないほどに好きなのだ。彼の仲間の点蔵にしても、ウルキアガにしても、胸を張って好きな女に好きと言っている。僕はそんな男の子の姿を美しいと思う。これでこそ人間であり、これこそがライトノベル=ジュブナイル(青春)小説だ。
 今はすっかり、ライトノベルというとオタク向け小説のことで、ギャルゲーを元にしたハーレム小説が王道みたいに見られているけれど、元々のライトノベルというのは、そういうものではなかったはずだ。
 そこで本題に戻るのだが、上条当麻は、大勢いすぎるほどいる女の子たちの誰が好きなのだろう。インデックスか。美琴か。年上や巨乳が好みだから神裂やオルソラか。
 「まだ女の子を意識するような年齢じゃない」などという答えでは僕は納得しない。そこにはウソがある。彼女もいない年頃の少年が、あれだけ大勢の美女に囲まれていながら、誰のことも意識しないというのは、人間の描写としておかしい。たとえば『進撃の巨人』のエレンのように、目の前で母親を惨殺されたトラウマで巨人への憎悪に凝り固まっていたり、あるいは『Fate』の衛宮士郎のように、世界平和の理想に燃えていたりすれば、恋愛どころでないということもあるだろう。しかし上条は、親を亡くしてるわけでもないし、何かの目的に燃えているわけでもない。(また話はそれるが、その点で、特に理由があるわけでもなく上条がいつのまにかヒーロー扱いされているのも、変な話ではある)少なくとも、大勢の少女たちは上条を好きになっているのに、上条は何も思わないというのは、それこそ記憶と一緒に恋愛感情まで欠落しているとでも解釈するほかはないであろう。作中にそんな説明はもちろんないが。
 上条が燃えるような恋に身を焦がす場面があれば、僕の『禁書』への評価はずいぶんと変わっていただろう。しかし今のところ、この小説には、疑問と不可解がわだかまっている。なまじ鎌池氏の文章力や発想力が強力なだけに、よけいに「モニョる」ところだ。
 まあ、『禁書』に限らず、ラノベの主人公には、美女に囲まれているのに何とも思わない朴念仁というより変態が多いのは確かだ。そろそろご都合主義ではおさまらないレベルである。その意味では『ホライゾン』だけでなく、『ソードアート』のキリトなども、ちゃんとアスナのことを好きになっているのは感心なところだ――あんな美人を前にして「ただの友達だ」などとぬかした日には、一人の男として、張り倒してやりたくなることであろう。
 その点では『ニャル子さん』の逢空万太氏は、なかなかわかっている人だ。主人公の真尋は、クトゥルー神話の知識があるから、ニャル子のことを不定形の宇宙人だと知っているからこそ気を許せないし、話が進むにつれて、ニャル子が神話のような邪神ではなく、宇宙人ではあっても真心のある女の子だとわかってきて心を許すようになっている。同じ逢空氏の『ヴァルキリーワークス』の理樹は、もともと大の女好きだし、ヴァルキリーという何ら警戒の必要のない存在であるフェルスズに対してまっすぐに好意を向けている。年頃の少年とはこうでなくては、と見ていて思う。
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投稿SRCシナリオを更新いたしました。

九重霧の恋愛事情

alw様の『九重霧の恋愛事情』2,3章を公開しました。

夢に初恋の人を見た九重霧。
再びその人と逢うべく仲間たちと探索を始める。
しかし、待っていたのは過酷な現実で……。

楽しんでいただければ幸いです。
バグなどのご連絡は、掲示板やメールなどからお願いします。

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 『新約とある魔術の禁書目録7』の感想
 
 この巻に限らず、最近の『禁書』を見ていてひとつ思うのは、非常に小説らしくなくなってきたということだ。『ソフィーの世界』でも読んでいるようだ。
 『ソフィーの世界』は哲学史を扱った小説だが、色々な出来事が起こる物語というよりは、西洋の哲学の歴史の教科書のような内容で、ストーリー性は薄い。
 それと同じで、『禁書』は作者である鎌池氏の理念や思想を語るためにキャラやストーリーが動かされているような印象がある。たとえば、7巻で『人的資源』計画で暴走したヒーローの一人がスポーツ用品店のバットを盗む場面でこんな会話がある。

「……ふざけんな。アンタがどこの誰だか知らねえが、うちの商品を暴力沙汰なんぞに使われてたまるか」
「何言ってんの? これは正義のための行いだよ。ヒーローってなあさ、困った時には必要なものを借りていくもんだろ。逃げる犯人を追うために車を盗んだり、壁に掛けてある剣を掴んだりさあ」
「だから全部許されるなんて考えてんなら、テメェはとっくに悪党だ」

 これは、スポーツ用品店のオヤジと、盗みに来た若者(たぶん学生。不良なのか真面目な学生なのかは不明)の会話である。この会話がとくに象徴的で印象深かったが、最近の『禁書』は、大体がこんな調子なのだ。
 店主の方は完全に正気だし、若者の方は、「人的資源」の影響で暴れ出しているわけだが、少なくとも洗脳されていたり特別な情報を刷り込まれていたりするわけではない。原文には、そういう記述はないのだ。そもそも、「ヒーローの資質のある人間がフレメアを助けに来る」という「人的資源」計画の内容そのものが、どうもわかりづらいのだが。ただ、仮に洗脳だとしても、略奪に来た若者が「ヒーローってなあさ、困った時には必要なものを借りていくもんだろ」などという説明的な台詞を言うのは実に変だ。その後の店主の返事にしても、「だから全部許されるなんて考えてんなら、テメェはとっくに悪党だ」とはなんだろう? 略奪に来られた店主が、そんな理性的な返事をするだろうか。こんな場面では、ふつう「なにをわけわからんこと言ってんだ、お前は!」とでも言うのではないだろうか――「現実」なら。
 小説は基本的にフィクションだが、そこで前提になるのは、「いかに本当らしくウソをつくか」ということである。この会話は、およそ「本物の人間らしさ」を描く努力を放棄しているようにしか見えない。作者の主張を、キャラにしゃべらせているように見える。それは小説ではなく、エッセイか哲学書だろう。
 『旧約禁書』15巻での垣根帝督と一方通行の対決で、垣根が「一般人をかばいながら戦う悪党なんかいない。現実は、そんな風に思い通りにはならない」と言うのへ一方通行が一般人をかばってみせて「このぐらいやるのが本物の悪党だ」と返す場面があった。これも、なかなかに観念的な悪党問答ではあるが、まだしも垣根と一方通行の生き方の違いの表現として納得できる部分があった。しかし最近の『禁書』は、完全に鎌池氏の演説の場と化している。小説の中で作者が前に出すぎるというのは時々あることだが、やはりエンターテイナーとして褒められたことではないだろう。
 もちろん、作者が理念を語るのがいけないといっているのではない。僕も理念を語るのは好きだし、どんなキャラにも理念や理想、生きる目的というのはあるのは当たり前だ。小説には、その小説のテーマがある。しかし、それは作中での出来事を通して語るものであり、主義主張の方に起こる出来事を合わせては本末転倒だ。
 旧約13巻、15巻での一方通行の戦いは『禁書』でも大きな見せ場の一つだ。そこでの文章も描写も、数あるライトノベルでも際立っていたと思う。それがこんな風に、だらだらとした思想語りの場になってしまったのは、とても残念なことだ。
 
 次に『人的資源』計画の7500人のヒーローについて話をしよう。
 禁書wikiによると、

フレメア=セイヴェルンを学園都市内に約7500人いるヒーロー達の庇護対象とし、
絶対的不利な状況でも勝利する不確定要素であるヒーロー達を潰し合わせる計画。
AIM拡散力場を操作し学園都市のヒーロー達の精神に干渉する。

 とある。本編を読んでいてもわからなかったのだが、wikiを見てもやっぱり納得できない部分がある。
 まず、ヒーローとは何なのか。どんな定義でヒーローと言うのか。なぜ、ヒーローの精神だけに干渉できるのか。また今のところ、「なぜフレメアが鍵になるのか」も明示されていない。フレメアに何かあるというのはわかるが、7巻の時点では、「とりあえず一番無力そうだから選んだ」というようにしか見えない。これでは、作者のご都合主義と言われても仕方がない。
 首謀者である薬味久子は、人的資源計画を発動させてからフレメアを殺すことで全世界に意識を拡散させるつもりだったようだが、なぜフレメアを殺すと全世界に意識を移せるのか。もしかしたら説明されているのかも知れないが、それについてこれる読者が何人いるだろう。奇をてらおうとするあまり、収拾がつかなくなっているように思える。
 
 主な問題点は以上2点だが、この2点が示す問題は、「要するに面白くない」ということである。
 もともと、鎌池氏の考えはどうも肌に合わないと思っていたが、最近の内容は度を越している。続きが気になるという理由で読んではいるものの、もはや「いかにダメなのかを楽しむ作品」と化しつつある。禁書ファンは、本当にこの内容で大丈夫だと思っているのか、疑問のわくところだ。
 
 ついでに、「藍花悦」と名乗る第六位のニセモノが出ていたようだが、何のために彼を出したのか、なぜ第六位をいつまでも出さないのかも、やはり謎である。第六位については、僕が批判するまでもなく、あちこちで非難轟々のようなので、多くは言わないが。

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疵痕~花山薫任侠伝~ 54話感想
製作者:リドリー様

 リドリーさんの『疵痕』54話の感想をお送りします。
 新章突入で次の展開への期待がふくらみます。

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疵痕~花山薫任侠伝~ 53話感想
製作者:リドリー様

 リドリーさんの『疵痕』53話の感想をお送りします。
 パワーアップしたロキとの決着の時が。

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疵痕~花山薫任侠伝~ 52-2話感想
製作者:リドリー様

 リドリーさんの『疵痕』52-2話の感想をお送りします。
 トニーとハマーとの決着の行方は。

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最近、愛のない人が増えている気がする。
人のミスに厳しく、ちょっとした失言や不注意に、鬼の首でも取ったように、居丈高になってとがめだてをする。
そういうご自分だって、間違いをしないわけではないだろうに。
あるいは、自分の考えと違う考えの人に、平気で暴言を吐く。自分の気に入らないものは平気で否定する。
こういうのを、とある友人の言葉を借りれば「絶対正義」というものだと思う。
とにかく自分は絶対に正しく、他人には厳しく自分には甘い。他人の過ちを指摘するのを神聖な義務のように思う。実は人を責める快感に酔っているだけなのに。
こういう人間の延長線に、スターリンやポル・ポトのような独善的な人間がいるのかと思う。
僕は人間関係の基本は「愛」だと思う。相手の過ちは敬意をもって指摘してやる。相互の敬意によって、お互いを高めあうことができる。
だからこそ、一方で、「目には目を、歯には歯を」ということで、独善家に対しては、怒りをもって対応するべきかと思っている。
ことあるごとに他所の国を責め、ささいな失言を高飛車に攻撃し、自分の失敗は全力で知らぬ振りをする国や人間も存在するが、そういった手合いには、我々も菩薩ならぬ人間であり、身勝手な言葉には怒ることもあると教えてやるべきなのだ。

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人間は簡単に自分から牢屋に入る。そして鍵のかかってない牢屋の中で「出してくれ」と叫ぶ。

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 『コードギアス』は有名なアニメだ。最初に始まった時には、ここまで有名になるとは思われていなかった。『スクライド』や『ガン×ソード』の谷口悟郎監督だから期待があったとはいえ。
 このアニメをメジャーにした理由として、ドラマティックでショッキングな展開があると思う。
 たとえばスザクの人生だ。彼はもともとルルーシュの親友であり善良な人間として描かれていたが、徐々にその歪みや傷が明らかになっていく。たとえば、ナナリーがマオに囚われた時の、父を殺したという過去だ。そして、忠誠を誓ったユーフェミアが死亡、それもルルーシュの過失によって錯乱したすえに汚名を着て死亡したという事件があった。これにより、「善良な戦士・スザク」の人物像は大きく変貌する。
 ユーフェミアの死亡は、コードギアスの中でも大きな中心となる事件だった。これがあったために、色々なことがおかしくなっていった。そして、その「おかしくなった」ために、話は劇的で面白くなったともいえる。
 ルルーシュは、『デスノート』の月と同じ、独善的で切れ者の野心家という主人公だが、「うっかり者」として知られてもいる。たとえば、小さいことでは猫にゼロの仮面を取られたり、大きいことでは、ユーフェミアを間違えて洗脳してしまうということなど。これは厳密にはギアスの力の暴走なのだが、想定外の事態に弱いルルーシュの性格を浮き彫りにもしている。これにより、ルルーシュはぐっと人間味と魅力が増し、味気のない完璧人間であることからまぬがれている。(完璧にならずにすんだのはスザクも同様だ)。
 『ガンダム』や『エヴァ』もそうだが、物語の中で、ララァの死やカヲルとの別離のような悲劇的な出来事があることで、物語が盛り上がることはある。『コードギアス』にしても、そうしたネガティブな出来事や設定をうまく使うことで、人を引き込む内容に仕上げている。
 たとえばルルーシュがブリタニアの皇子という身分を隠してレジスタンスのリーダーに収まったことで、のちに事実が発覚して信頼を失うくだりで視聴者は衝撃を受け、その衝撃が快楽に転化する。その過程で、扇とヴィレッタの間の交流、そして扇のルルーシュへの不信など、いろいろな要素がからみあう。
 ユーフェミアの死がなかったら、ルルーシュの正体の問題についても、もっと軟着陸していたかも知れないが、軟着陸していたら、ここまで盛り上がってはいなかったのではないか。とはいえ、単にキャラ同士の仲を悪くして、争いを起こさせれば、それで盛り上がるというものでもないだろう。やはり、お互いやむにやまれぬ事情があって、譲れないもの同士がぶつかるところに、視聴者は魅力を感じるのだと思う。
 物語の結末は、最後の敵であるシュナイゼルにギアスをかけ、皇帝となったルルーシュ自身はゼロの仮面をつけたスザクに討たれることで、ある意味最後まで世界を策略にかけ続けて物語が終わる。そして『コードギアス』は『ナイトメアオブナナリー』、『漆黒の蓮夜』、『双貌のオズ』など数々の外伝を生み出し、今でもアニメの世界で一定の位置を確保している。そうなった理由として、主人公ルルーシュと物語全体の不完全性が人を引き付けるということがあるのだと思う。林原めぐみの歌に「ハッピーエンドだけじゃ物足りない、時には涙もエッセンスなの」という言葉がある。僕は基本的にハッピーエンド主義者で、主人公やストーリーにも完全性を求める方だが、一方で、そうした不完全さの必要性についても考えるべきだとも思っている。

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