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『ストレンジャー シスターズ・ノイズ』2章を公開いたしました。

ストレンジャー シスターズ・ノイズ

圧倒的な力をもってしても抗えない、
少女の限りなく絶望に近い運命に、
怒れる閻王と幻想殺し、心優しき戦士たちが挑む。
そして時代は、激動の予感を秘めてうねり出す――。

お楽しみ頂ければ幸いです。
バグなどのご連絡は、掲示板やメールなどからお願いします。
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テーマ : フリーゲーム - ジャンル : ゲーム

 最近は色々な人物や組織が叩かれている。
 具体的にどこがどう、というとカドが立つので言わないでおくが、とにかくマスコミでもネットユーザーでも、ヒステリックに何かを叩く人をよく見かける。
 当然、その非難が合理的なものもある。けれど中には、「そんなことでここまで怒らなくたっていいじゃん」と感じたり、「そもそもそれは確かな話なのか?」と思うことがあったりもする。
 そういう風潮の中で、僕も色々と思うことや言いたくなることもあるが、同時に不用意に首を突っ込むと危ないということもわかる。
 叩く人たちというのは、基本的に病的な怒りを表現していて、気に入らないことをこちらが少しでも言ったりやったりすれば、その瞬間爆発するような、そういう危なさがあるからだ。その非難の内容も、論理的な批判というよりただの罵倒、いや動物の鳴き声に等しい「バカ」とか「死ね」とかばかりだったりする。そもそもこういうことを書いていても、「怒って何が悪いんだこのバカ。死ね」と言われそうで実に恐ろしい。僕だってもちろん怒ることはあるし、どちらかといえば感情的な方だが、それには色々とわけがあるし、自分が勘違いしたり間違うことだってあるとも思う。
 ああいう、自分が絶対の正義であり、叩く相手が悪の化身のように思う人とは何なのだろう。自分が正義の勇者であり、叩く相手が人間の苦しみを食う大魔王ゾーマだと思っているのだろうか。所詮お互い、正しいところもあれば間違ったところもある人間に過ぎないというのに。
 ともあれ、そうした風潮を評して「いやな世の中になった」とか「世も末だ」と思うのも、それはそれで僕は嫌だ。どんなに過酷な現実だろうと、どんなに認めがたい出来事だろうと、目の前に起きたことは、ただの現実なのだ。
 そもそも、諸行無常こそは不滅の真理だ。どんな人も国もいつか滅びるし、この地球も数億年すれば消えている。ならば少しぐらい世の中が荒れたからといって、嘆く必要があるだろうか。せいぜいが肩でもすくめて適応する努力をしていけば十分なのではないか。
 ただ少なくとも、現代の日本というものは、ヒステリックであり、お金で物事を数値化するような即物的な社会であり、不人情な社会であるのは間違いないだろう。それは、他ならぬ僕自身、少なからずそうした思考に染まっているからよくわかる。科学が発達し、物質的に満たされ、高度に情報化された社会では、少なからず起こり得る現象なのかも知れない。道ひとつ歩き、ブログで文章ひとつ書くにも、何事にも用心する必要がある社会なのだ。そうした社会はあまりよいとも思えないが、こんな時思い出すのは『ニンジャスレイヤー』のレイジの言葉だ。「……噫!どこにも理想世界など無かった!いや、俺の中にだけある!他の誰の中にも無いのだ!」思えば『ニンジャスレイヤー』の作中でも、人情が薄く、人々が機械的になったディストピアを描いている。やはり、創作の力は大きいのだと改めて感じる。
『ストレンジャー シスターズ・ノイズ』1章を公開いたしました。

ストレンジャー シスターズ・ノイズ

そして訪れた開幕の時。
宙に舞うコインが決める運命は絶望か、それとも希望か。
あまりにも大きな力の壁、そして世界の闇。
繋がり合う強さだけが全てを打ち抜いていく。
――もう、誰にも壊させない。

お楽しみ頂ければ幸いです。
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絵でも小説でも、作品を作るうえでやはり大切なのは、自分の作品に惚れて惚れて惚れ抜くことなのではないかと思う。
 『オーバーロード』3巻を読み終わる。
 読んで思ったのは、「ああ、これは本当に、主人公たちは墳墓の中に巣食う人外の怪物たちの集団なのだな」ということだった。
 シャルティアやアルベドといったアインズの家来たちは、皆圧倒的な力を持ち、そして外の世界の人間を虫けらとしか思っていない。メンタリティーは、『ニンジャスレイヤー』のニンジャと同じである。彼女らはアインズには率直に好意を見せるが、それとても使い魔が主人に向ける好意であり、人間が人間に心服して向ける好意とは少し違う。アインズたちの人間関係は、ナザリック大墳墓の中で完全に閉ざされているし、外界の人間たちも、アインズとは全く無関係に動いているし、アインズたちが現れれば津波や竜巻が現れたように恐れるだけだ。そこには対話も相互理解もなく、ただ暴力だけがある。
 無論、そういうのがいけないといっているわけではない。世の中にピカレスク・ロマンというものはたくさんあるし、『Fate/Zero』などは歪んだ価値観や誤った物の見方をした登場人物たちが大部分を占める物語だが、そのストーリーは非常に魅力的であり、破滅の美学とでもいうべきものを僕に提示してくれる。けれど『オーバーロード』は、非常によくできているとは思うものの、やはりどこか、「何か変だな」という違和感を拭わせてくれない。
 たとえばアインズは本来は鈴木悟という平凡なサラリーマンだったが、この世界で骸骨の体と強大な魔力を持つ魔王アインズとして行動するうちに、徐々にその姿にふさわしい、怪物めいた精神性に変化していく。具体的には、墳墓の外で出会う人間たちに対して、使い魔たち同様、虫でも見るような感情しか抱かない。そんな自分に疑問を持ったり恐れたりすることもない。やはり『小説家になろう』の小説の、神無月紅作『レジェンド』でも主人公が敵対する人間の女盗賊を無慈悲にあっさりと殺してのけたりしていたが、この人間の敵に対する無感情さは何なのだろう。Amazonのレビューなどを見ると、『なろう』の読者はわりと違和感なく、こうした内容を受け入れているようだが、最近はたとえ創作の中とはいえ、人間をそれこそゲームの敵キャラのように扱うことに疑問を覚えない人が増えているのだろうか。それを思うと、少し恐い気もする。
 たとえば平野耕太の異世界漂流ものの『ドリフターズ』では、主人公の豊久や信長たちはやはり敵の兵士をばったばったと殺していくが、それは戦国武将が漂流したのだから当然といえるし、同時に、行った先の世界で出会った人々に対しては相手をちゃんと「人間」と見なしているし、殺した敵の遺骸は弔ったりもしている。普通は、たとえ戦争で殺し合う間柄だろうと、人間は他の人間をモノ同然に認識したりはしないものだ。それこそ、ナチス将校がユダヤ人に対する時でもない限り。しかし考えてみると、以前五木寛之のエッセイだったか、「ナチの将校たちは非常にいい人で、家族思いでもあった。彼らは暖かい食卓で友人と談笑していた。ただ、同じ建物の地下室ではユダヤ人が虐殺されており、彼らはそれには何の疑問も抱かないのだ」といったことが書かれていたが、これはアインズたちと外の人間たちと重ならないだろうか。僕の愛読書であるディーン・R・クーンツの『ベストセラー小説の書き方』には、「平然と殺人を犯すような主人公はまずい」という章がある。これを僕なりに考えてみれば、何もためらわずに、たとえ犯罪者だろうと人を殺したり、平気で人の物を盗んでいくような主人公というのは、現実の日本でたとえれば、下半身丸出しで街を歩いていたり、食べ物を丸ごと道に投げ捨てていったりするようなものではないか。それが不道徳だということもあるが、「なぜそんな奇妙なことをするのだろう」と見る人は疑問に思うはずだ。
 とある知人は、「後半になってくると外の人間たちもアインズたちに反撃してくる」といっていた。この作者は展開がうまいから、いつまでもこの同じ調子で話を進めはしないのだろうとも思う。けれど、3巻まで読み進めても、こうした殺伐としたノリが続くと、「要するにこういう小説なのだな」と考えるものだろう。小説の書き方本では、最初の1巻どころか最初の1ページ、1行からその作品の評価は決まってくるといっているものもある。僕はすでに1000ページあまりこの本を読んだ。ならば、この本は基本的に人間を平然と踏み潰す小説なのだと思わざるをえない。たとえば『コードギアス』や『デスノート』では、主人公のライトやルルーシュは頭は良いけれど非常に独善的な人間で、他人を犠牲にするのを何とも思わない悪漢として描かれているから、読者も「ああ、これはピカレスク・ロマンなのだな」と了解できる。けれど『オーバーロード』では、一方で人間を平然と殺戮しながら、一方で墳墓の守護者たちと和気藹々と和んでいるから、頭が混乱するのだ。
 僕は決して、「この小説は間違っている。正しい善悪の描き方はこうだ」などと上から目線で語るつもりではない。ただ、感じた違和感を率直に口にしているだけで、「なんだか背中がかゆいが、なぜなんだろう」と言っているのと同じだ。「背中がかゆく感じるなんてお前はおかしい」と言う読者もいるかも知れないが、そういう人には、「はあ、そうですか」と言うほかはない。ただ、ひとつ言うなら、それなりに売れてはいるものの、この小説はあまり普遍性は獲得できないのではないかという気もする。ライトノベルやweb小説で普遍性を語るな、といわれるかもしれないが、しかし「遊びの小説だから何を書いても構わない」という認識に留まるのは、それはただの怠惰だと思う。少なくとも一定以上売れているからには、「ここが変だ」「あそこに疑問がある」という批評を受けざるをえないし、仮に出版社が普遍性のない小説をそれと承知の上で、売り物になるというだけの理由で売ったとしたら、それは志のない商売といわねばならないだろう。最近、そういう会社もけっこうある気もするのだが。
 赤月みゅうとは、僕の好きなエロマンガ家の一人だ。絵のエロさでは、僕の知る中でもトップクラスだ。単純に画力で考えれば、ネットでたまに比較される矢吹健太郎には及ばないだろうけれど、矢吹は一般作家であり、エロマンガ家の赤月とは分野が違う。ねっとりとした執拗な絵柄、汁が過剰になりすぎない描写などは、圧倒的といってよい。
 その赤月みゅうとで、よく耳にする批判がある。それは、変にシリアスに傾きすぎるということだ。『奴隷兎とアンソニー』や『美少女クラブ』などの長編ではよく、SF設定が入ったり悲恋が入ったりするが、それはエロマンガとしては余分ではないかということだ。
 一理あるとは思う。ただエロを追求するためなら、あまり物語に入れ込みすぎる必要はないだろうし、読者としては気が散ってエロに集中できないということもあるかもしれない。けれど、漫画を描いているうちにただエロのみに飽き足らず、物語を展開させてみたくなってくる赤月の欲求は理解できるものだ。
 友人のalw氏が以前、同人誌はエロは見ていても退屈だからつい話の方が気になってしまう、というようなことを言っていたことがあったが、実際、エロと物語は少し別物だ。どこまでいってもセックスはセックスであり、それは物語ではなくひとつの技術や美術の追求といってよい。一方で、物語というものはたとえ絵が拙くても、ストーリーが興味深ければ、読者をグイグイ引き付けていくものだ。『魔道』や『ワンパンマン』のような優れたWeb漫画がそれを証明している。
 赤月は僕が見るに、物語を作りたいという欲求も旺盛な人のように思える。だからこそ、単にエロを描いているだけでは我慢できず、物語として発展させていきたくなったのではないか。そしてそれは、必ずしもエロを求めている読者のニーズとは一致しない。けれど、創作家としては間違っていないのではないかと僕は思うのだ。
 創作の道というのは、結局のところ独善的なものだ。僕の知るある作家は、「私は自分の小説は自分一人が満足できるものを書ければそれでいい」と言っていたが、赤川次郎や尾田栄一郎のように「売れる」作品を作ることと、自分の創作欲求を満たすこととは、また別なのではないか。そして、たとえエロマンガだろうと、この限られた人生の中で漫画作品を世に問う以上、そこに自分の骨の髄からしみ出てくる「物語」を込めてはいけないという法があるだろうか。当然、それは反発を呼ぶかもしれないし、賛同が少ないかもしれない。けれど、物語を展開できる喜びに比べれば、その程度のことはなんだというのだろうか。その意味で、僕は赤月みゅうとは立派な創作家だと思うのだ。
 最近、『千年戦争アイギス』にはまっている。
 課金ありのブラウザゲームは、僕はあまり良くは思っていない。課金というのは、つい際限なく金を使ってしまうから危なっかしいものだし、ブラウザゲームはセーブデータを手元に保存しておくことができず、「しょせんいつかは別れるもので、ずっと一緒にいることはできないデータだ」という思いがあるからだ。
 けれど、それを踏まえても、『アイギス』は非常に面白いゲームだ。
 まず、このタワーディフェンスという形式がなかなかに面白い。攻めてくる敵を、ユニットを配置して倒しながら陣地を守るシステムなのだが、敵の数や動き、強さと味方の強さ、配置するためのコストの量など、考える要素が多様にある。『戦国無双』などは何も考えずに剣を振り回していればクリアできるし、スパロボも意外と頭を使う局面がない。わりと何も考えずに、強いユニットを出せば無双できてしまう部分があるし、弱いユニットは徹底的に役立たずになってしまったりする。困った時は精神コマンドを使えばなんとかなってしまうところもある。『アイギス』ではコスト制があるため、ブロンズ級のソルジャーがブラック級のアーマーやダークナイトより役に立つ局面がある。それは、全てのユニットに対する大きな公平性であると言える。育成すればブロンズでも強くなるし、育てなければプラチナやブラックでも後半では使えない。育成する順番から戦闘での動かし方に至るまで、しっかりと頭を使うことが要求される。
 戦闘場面では、スパロボは考える時間が無限にあるが、『アイギス』はポーズ時間以外は常に敵が動いているため、素早い判断を要求される。敵の動き次第では、こちらが判断するより先に不利な状況に追い込まれることも多い。非常に、リアルな戦争の指揮官になったような感覚が味わえる。本来の戦争ではスパロボのように、味方が動いたら敵が動く番というシステムにはなっていない。タワーディフェンスという形式上、こちらから攻め込むことはないものの、『アイギス』はよりリアルな戦争に近い感覚といえる。
 そして、ステージクリアの形式も面白い。ただクリアするだけなら星一つだが、出現した敵を全員倒した、もしくは配置した味方を一人も死なせずにクリアすることで星が二つになり、両方とも達成すれば星三つになる。星三つでクリアすることで、初回のみコンプリートボーナスがもらえる。序盤のステージでは簡単に星三つが達成できるが、後半になってくると、敵が強くなり、またステージも複雑になってくるため、ユニットを丁寧に鍛え上げ(力)、プレイヤーも戦略をきっちりと練って(知恵)いないと星三つは達成できない。力と知恵の両方が揃って、初めて本当にクリアできるのだ。
 この構図は、ゲームではないアニメや小説にも応用できる気がする。すなわち、ある少年が悪の組織や魔族に襲われたとする。ヒロインや家族を守って、敵を倒してその野望を阻止する。これは、『アイギス』で星三つを達成する構図と共通しないだろうか。多くの作品、たとえば『ヘルシング』などでは、主人公のインテグラは少佐率いるミレニアムを壊滅させるが(敵を全員倒す)、ロンドンは焼かれベルナドットやウォルターも失うことになる(味方を死なせる)。『アイギス』ならば星二つのクリアということだ。これでミレニアムの残党、たとえば少佐本人が生き延びて逃げおおせ、次回作への引きとなっていたりしたなら、星一つのクリアということになるだろう。その意味で、敵(言峰)も完全消滅させられず、味方(アイリ、舞弥)も死なせ、目的(聖杯による世界平和)も達成できなかった『Fate/Zero』の衛宮切嗣などは星ゼロということになる。
 この二つの物語を考えてみるなら、インテグラは指揮官としては無能ではないが、敵(少佐率いるミレニアム)が強すぎたこと、味方(ヘルシング)が少なすぎたこと(まともな戦力がアーカードとセラスしかいない)ことなどが、星二つの原因となるだろう。切嗣の場合、彼は十分に有能だったが、そもそもの目的設定が間違っていれば(世界平和)、どんなに優秀な指揮官と兵隊がいても達成のしようがなく、その兵隊は無駄遣いに終わってしまうということだ。
 このように、物語を考えるうえでも、『アイギス』というゲームは役に立つ。そもそもこの話の主人公は亡国の王子であり、戦士たちを率いて魔物の軍勢と戦う戦略ものなのだ。制作者がどの程度意識して作ったのかはわからないが、自ずからリアルな戦争のイメージを形成する結果になっており、好感触だ。
 もうしばらくは、このゲームから離れられそうにない。だが、ものごとは前向きに捉えるのが大事だ。創作家としての僕にも、この『アイギス』は利益をもたらしてくれるように思える。

テーマ : 千年戦争アイギス - ジャンル : オンラインゲーム

 丸山くがね『オーバーロード』の3巻を読む。
 このシリーズだけでなく、最近いろいろな話を読んでいて思うことは、多くの作品はある部分は認められてもある部分は受け入れがたいものだということだ。作品とは、その作者の考えや気持ちを表現したものだ。だから読者は、その考えや気持ちにある部分は共感しても、ある部分は反発したり拒絶したりすることがあるものだ。あるいは、その表現があまりに稚拙だったり独善的だったりして、全面的に受け入れられないことも少なくない。一方で、全面的に受け入れられて、「これは最高だ」と思えるような作品や作者には、なかなか出会えないものだ。だからこそ、そういう作品は貴重だ。
 『オーバーロード』はよくできた作品だと思う。作者にも力量があると思う。けれど、時折感じる、いいようのない嫌悪感はいかんともしがたい。もっともこれは、この作品に対して、というより、「最強系」といわれるような最近の流行ジャンルに対して思うことなのかも知れないが。
 たとえば今回の3巻だ。前半で吸血鬼のシャルティアは、アインズの命令に従って盗賊たちをおびき出し、これを虐殺していく。さらに剣士のブレインを打ち負かし、その仲間の傭兵たちを蹂躙していく。
 この展開自体も、古典的なラノベ読みとしては若干眉をひそめたい気がしなくもない。『スレイヤーズ』のように、天才魔道士の少女が盗賊たちを蹴散らすならわかる。たとえ戦士や魔道士の才があってもリナ一人では単なる人間であり、盗賊の剣が突き刺されば死ぬし、薬を盛られて弱れば不利な勝負を強いられもする。いかに無双しているように見えても、それは卓越した技量のなせるわざであり、対等な人間同士という一線は守っている。
 けれど、シャルティアは強大な吸血鬼だ。盗賊たちが全力で攻撃しても、傷ひとつつけられないし、シャルティアは指先ひとつ動かすだけで盗賊たちを虫けらのように潰すことができる。スパロボにたとえれば、リナの無双が鍛え上げたνガンダムやビルバインで並み居る宇宙怪獣をバッタバッタと倒していくのに対して、シャルティアの無双はズフィルードやガンエデンのような桁外れの機体でザクやジムの群れを踏み潰していくようなものだ。これでは爽快感すらなく、どこか味気ないものを感じる。一応展開の途中でシャルティアは洗脳魔術にかかり失神するが、それもどこかイベント戦闘じみて、「恐るべき異変により不覚をとった」という危機感がない。
 さらにいえば、シャルティアが倒す悪党たちは人間味のある描かれ方をしているから、悪人をやっつけるという爽快さもない。強大な吸血鬼によって無力な人間たちが蹂躙されていく理不尽さの方が強い。「なろう」の読者はこれを見て爽快だと思うのだろうか。僕にはどうも理解できない。それこそ『スレイヤーズ』の魔族が人間を虐げ、『ニンジャスレイヤー』のニンジャがモータルを虐げているのを見ているような気分になる。リナやフジキドはいつ来てくれるのだろうと思うが、その主人公がシャルティアの側なのだ。後でどんでん返しがあるからといっても、少しやりすぎの感は否めない。『西遊記』で、三蔵法師を襲った山賊たちを孫悟空が容赦なく殺したのを見て三蔵法師が眉をひそめた場面があったが、それを思い出す。ブレインたちは必死にシャルティアに攻撃するが、それがまったく効かないのでシャルティアが欠伸をするくだりがある。これを見て思い出したのは、『刃牙道』で刃牙が格闘チャンピオンとの試合で欠伸を噛み殺していた場面だ。主人公の強さを演出し、読者に強さに酔う快感を提供したいのはわかるが、戦う相手に対する敬意がないというのは、やはり感心しない。『ヘルシング』のアーカードが、たとえ全く自分にかなわない人間の兵隊たちにも、決して敬意を失わなかったのを思い出す。
 結局のところ、最強系というのは、今の時代が要請した新しいトレンドであり趣味嗜好なのだと思う。普段理不尽な上司や意地悪な同僚に踏みつけにされている読者が、最強主人公に自分を投影し蹂躙される敵キャラに上司を投影することで憂さ晴らしをする、そんな構図があるのではないかと思う。純粋に「熱くなりたい」とか「痛快な話が読みたい」というのとは何か違う、「鬱憤晴らしがしたい」「不平不満のはけ口がほしい」というような、どこか暗い欲求が背後にある気がしてならない。もちろん「なろう」には『辺境の老騎士』のような、最強系とは違った方向性の小説もある。けれど、最強系、俺tueee系、最低系はすでにひとつの大きなムーブメントとなっている。僕はそれを嘆きたいわけではない。それもひとつの時代の流れであり、社会の鏡なのだと思うだけだ。ただ、そうした作品は僕の趣味ではないし、読んでいて思わずこうして「どこがどうおかしいと感じたか」を語らずにはいられなかったのも確かだ。
 正直、僕の主張は世の多数派にはあまり受け入れられないのではないかとも思う。けれど、芸術というものは本来、多数派におもねらず世間の顔色をうかがわず、ただひたすら自分の欲求や信念にだけ忠実になり、我が道をひた走るものなのではないかとも思うのだ。西田幾多郎も、「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を吾は行なり」と歌っている。色々と新しいトレンドの生まれる時代だからこそ、僕はあえて時代に背を向けていたい気がする。
 最近、ジョジョ1部を読んでいる。
 そして思ったのは、少年漫画としては2部以降の方がわかりやすく、1部は大人向けの物語として優れているということだ。初期のジョナサン少年時代などは特に。
 この話でジョースター卿はジョナサンには実子ゆえに厳しく教育し、養子のディオには優しく接していた。またジョナサンも、大事な人に対してやられたことには反撃しつつも、基本、あまりディオに積極的に敵意を向けてはいなかった。西尾維新の『OVER HEAVEN』でDIOがいっているように、過酷な幼年時代を過ごしてきたディオにとっては甘い家だといえるのだろう。
 それで、ふと思った。
 もし、ジョースター家がディオにとって甘くなかったらどうだろうと。
 ジョージは悪党の息子であるディオを冷たい目で見て、ジョナサンは最初からよそ者ディオに敵意を向けるような物語だったら。最初にディオがダニーを蹴ったとき、ジョージがディオを責めて、やっかい者扱いしていたとしたら。
 その場合でも、きっとディオにとっては、辛い境遇ではなかっただろう。むしろ過酷な育ちをしてきたディオは、「そのぐらいでなければ面白くない」ぐらいに感じ、闘志を奮い立たせていたのではないか。もしそうだとすれば、『ファントムブラッド』は、高圧的な貴族のジョースター親子と、その財産を狙うべく侵入してきたディオとの闘争を描くピカレスク・ロマンになっていたのかも知れない。だとすれば『OVER HEAVEN』でディオが想像した通り、ジョナサンが石仮面で吸血鬼となり、ディオは自分の生存のためだけに波紋戦士となって吸血鬼退治をしていたかもしれない。たわいもない思考の遊戯ではあるものの、それなりに面白い気もする。

テーマ : ジョジョの奇妙な冒険 - ジャンル : アニメ・コミック

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